Footprints on the sands of time is not made by sitting down.

時の砂に残る足跡は座っていては作ることはできない


今、というか、けっこう前から英語の諺を勉強している。

言葉というものは、すごいものだな、と思っている。特に、諺、金言というものは、すごいものだ。

これを1000ほども覚えたら、英語の勉強というものは、ひとつ大成するのではないかな、と思っている。

今、日本では英語熱がすごい。しかし、無駄な動きだ。

小学校の低学年から英語を始めようと言う動きがある。

何にもならないだろう。まず、小学生はしっかり日本語だろう。

日本語は使い勝手のある言語である。しかし、世界でもっとも難しい、というか、言葉に取り扱い説明書というものがあるとすれば、それが最も分厚いものとなるであろう。

言葉の使い勝手を決めるもの・・・

1)日常生活

2) 造語能力:新しい考え方や概念を表す事ができるか

3)外来の考え方、物産、などを、自国の言葉で表す事ができるか

4)その言葉でどのくらいの文学作品を読む事が出来るか 翻って言うと、先人と対話ができるか。

この場合、言葉の「使い勝手」というものをこれで決めたい。

1)はどの言語でも満たされるであろう。

2)表音文字ではかなり難しくなる。やはり、日本語は表意文字である漢字を擁しているので、このようなことは可能。

3)同じ表意文字でも中国語は外来の考え方を自国の言葉で表すには苦労するだろう。というより、彼の国は昔から「中華」と自称し、他の国の文物を取り入れるということが殆どなかった。故にこのような機能に対して、中国語はあまり意を払っていないようだ。

4)文化の連続性だろう。言葉は意思伝達の手段。それは生きている人たちの間だけで交わせられると良い、というものではない。昔の人とも意識を疎通出来なければならない。途中で言葉を変えてしまってはこれはできないだろう。韓国は漢字を捨て、中国は今、恐ろしく変わった字体の漢字を使っている。これでは、昔の文書を読むのは難儀だろうな。

 日本語は多少は昔とは変わっている。確かに、平安時代の古典を読むのは大変だ。また、常用漢字に限り字体を変えてある字もある。しかし、読めない事はない。

故に、この4点からから、日本語が世界でもっとも使い勝手のある言語である、と言う事が言えると考える。

しかし、その取り扱い説明書は、もっとも分厚い。それをマスターするのに、小学校の間、英語等より、日本語をみっちりやるべきだろう。

 英語の諺の勉強をしている上でこのように思った。

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